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​まえがき

​「性」について

恋愛・セックス・結婚は、人生で重要とされるといわれています。

性について考えてみると生き物は子孫を残すため本能として性欲を持ち合わせている。

犬や猫は道端で場所を問わず性交することがあるだろう。だが人は公にセックスをすることはない。それは社会が倫理や秩序をつくり私たちは教育されているからである。

一定の秩序はもちろん必要だがそれは本来人が持つ性的自由を制限してしまっているのではないか。セックスをすることは人間の本能でありエネルギーの源であり誰からも干渉されるべきものではないはずだ。

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かつてキリスト教は「夫婦間のセックス」のみを認めていた。
そして価値観は修正され、現代においては「恋人(結婚していない)同士のセックス」が市民権を獲得している。これが現代の線引きである。しかし価値観の修正はすでに迫られていると自分は感じる。
つまり「友人・知人同士の子作りを目的としないセックス」が認められる社会だ。これまでの固定観念を捨て新しい思想を取り入れるべきだ。

みんながみんなそれに賛同はしないだろう。そのために同じ考えをもつコミュニティー・集団が必要なのではないかと思った。

世間から離れ、そのコミュニティーの中で心を開放し、人生を鮮やかに楽しむことができたらとつくずく思う。

 

セックスは空っぽの自分を埋めてくれる愛情である。

セックスをしている時間だけはほかのだれかに見てもらえている、相手の人生の一部になることができ、安心感を得て、心の平穏を保つことができるのです。経験人数など恥ずべきことではない、むしろ勲章である。

セックスを嫌悪するということは教育、道徳、宗教による強い抑制を受けたことが要因であり、成人をした今、あなたは性的な交流をもっと広げ人生を楽しむべきだ。

世の中には愛情に飢えている人は多いはずだ。性的同意をもつ集団の中でセックスによる愛と奉仕を与え合い、みんなが幸せになるそんな考えを理想とするのはあながち間違ったことではないのではないか。

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これに関連してSMは、サディズム(加虐嗜好)およびマゾヒズム(被虐嗜好)に基づく行為全般、ないし同プレイを含む文化様式(サブカルチャー)群の総称である。

なぜこんな概念があるんだろうと思うが、後のラジニーシ教にも記載してあるが精神的開放にある。人にもよるかもしれないが、加虐や被虐はセックスでは得られない快楽を得られるのだ。

自分は加虐によって相手の反応を楽しむ。セックスでもそれはできるがワンパターンといえばそうなのだ。加虐は愛でもある。

また執着・増悪・恥溺の根本も愛であり、それが被虐側にうまくハマった時深い信頼関係ができるだろう。

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歴史、宗教から性的な部分を参考に切り出してみました。多くの宗教は赤の他人との性交渉を禁止している。ちなみに私は無宗派である。

・キリスト教徒

「隣人を愛せ」という教えに従い、他者への愛と奉仕を実践します。この愛は見返りを求めず純粋に他者のためを思う無償の愛です。

愛は信仰の柱であり、社会の基盤とされています。神の愛によって人は生かされているという信念が、キリスト教における愛の根底にあります。

また、愛のために自分の財産を寄付したり、身を捧げたりする行為は、キリスト教徒にとって究極の神への愛の表現と見なされます。

 

・真言立川流

平安時代に生まれた真言宗の一派である真言立川流などは、男女がセックスをすることで即身成仏がかなうと説いた

 

・ラジニーシ教

宗教は人生を楽しむ方法を示す芸術領域(アート)である。

セックスは「愛の出発点」であり、自己超越の最初の片鱗だということをオープンに正直に受け入れるべきだと主張した。

瞑想やグループ・セラピー(集団心理療法)の目的は、「社会や文化の影響によって鋳型にはまってしまっている自己を解放し、瞬間、瞬間を覚醒して生きること」。

オショー・ラジニーシは、人間の究極的な目的である光明(悟り)を得た状態、「本来の自分」とは、人々の「真の個性」が全面的に開花し、自己が宇宙全体と一体化した意識状態であり、虚りの実存である人間の自我(ego)が最大の障害になるとする。自我は教育、社会的条件づけ、社会化によって強まっていくと考え、親の教育や学校教育、道徳的、宗教的な教えなど全ての教育は、特定の信念体系や社会的役割を教え込み、人間を鋳型に嵌め込んでしまうと考えてセックスは「人間の最も強力な本能」であり、人間の本性における最も原動力であり、最も悪い神経症と最も崇高な霊的体験の両方の源であると繰り返し語った。「セックスはとても重要だ。なぜなら、自然全体がセックスを求めているからである。そうでなければ、人間は存在し続けることができないだろう。セックスが個人の意思によるものなら、地球上には誰も残らないだろう。セックスは非常に強迫観念的で、已むに已まれぬもので、性衝動が強烈なのは、自然全体がセックスを求めているからである。」セックスは人間の本性の中で最も深く激しい衝動であり、宗教者、政治家、支配者たちは、人間を従わせ、奴隷にするために、セックスを激しく抑圧してきたとし、タントラ*は、性欲を受け入れ解放する唯一のスピリチュアルな道であり、宗教的・政治的な支配を受けることのない非常に深い自由を人間にもたらすとした。

生命エネルギーそのものである性欲を結婚という社会制度や宗教的禁欲で抑圧すると、人間の意識は歪み、その能力の委縮につながると考えた。

グループ・セラピーの一部にある力や性的実験は、あらゆる境界を根本的に破壊し、完全な精神的解放をもたらすために必要だ。

*タントラ:ヒンドゥー教のシャクティ派における教典や、そこから派生した哲学・実践体系

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セックスは源
セックスはあなたに、生のリアリティとはなにかに対する答えを与えることができる。
それは、セックスがあなたの中で最も活気あるものだからだ。精神はあなたの中の最も活気のないものであり、だからこそ、精神は常にセックスに反対し、精神は常にそれを抑圧する。彼らは敵同士だ。
精神は生命のない物であり、セックスは生命力だ。あなたがセックスに入っていくたびに、精神は欲求不満になり、精神は言う、「これは間違いだ。二度とそこに入ってはいけない」
精神は道徳を説く人になる、精神は厳格主義者になる、精神は聖職者になる。精神は非難しつづける。活気に満ちたものすべてを精神は非難しつづける。
そして、生はセックスを通じて来るのだから、セックスはあなたの中の最も活気あるものだ。あなたはそれを通じて生まれている、あなたはそれを通じて誕生させることができる。生が、活気があるときは必ず、セックスが源だ。

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